昭和47年1月15日 朝の御理解
中村良一
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分の都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
(音声が悪く聞きにくい)
お道の信心が、御教えだけの信心だと言われる。迷信打破の事を、教えておられるのだと思います。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思えと。日の照らしなると言うことは、何時もの事ですからね。ですからね、並の風行きは、これは、不詳の天気とも言うけれども。実を言うたら、雨の日でも天気の時でも、実は、良い日だと言う訳です。ここんところが、すっきり一つ、それを分からせて頂きますとね。何事によらず、いわゆる、すっきりしてくるですね。ところが、私どもの場合は、やはりまぁ、迷信ではなくても、色々と、問題の起こってくる事もあります。一杯あります。この、迷信を信じておると、迷うた事を信じておるという事は、本当にあの、迷うた事が、いわゆる、よくない事がおきてくるんですよね。それは、迷うた事を信じておるからです。そこにあの、本当に不可思議な働きというものが感じられますですね。悪いと思えば、やはり、悪い事が起こってくる。良いと思えば、良い事が起きてくる。良いと確信する、願うて信ずる。心の状態が、その人の幸不幸を左右するという事が、はっきりして参りますね。そこで、信心とは、その心の状態をです。あらゆる、いろんな角度から、例えば、こういう迷信的な事を、昔から、言うて来ておる。そういうような事でも、例えば、そういう事はないのだと言われても、いや、そげん言いなさるばってん、やっぱ、昔から言うて来てある事だけんでと言うて、日柄方位を見る訳ですね。例えば、この日柄方位だけの事ではありませんけれども。そこでその、本当に、それをですね、すっきりと、そういう事はないと信じ切れれる稽古が、だから、信心だという事になりますね。
日柄とか、方位とか、教祖はないと仰る。何時も良い日じゃとこう仰る。それでも、やはり、昔から言うてきた事じゃからと、強引に、そこんところを、強引にというよりも、そこんところがすっきりしない。その、すっきりするところまで、私、信心を、これはね、例えば、理論というか、理屈の上では、もう本当に、教祖様は、このように、噛んで含めるように、いろいろ教えておられる訳です。また、とりわけ、合楽では、それをまた、噛んで砕いたように教えて頂くのです。ですから、なるほどと、道理の上では分かりましても。それは、自分の心でです、すっきりと頂けるという迄には、信心は要るのです。
みなさんところに、まぁだ、御仏壇があるでしょう。これは、迷うてる証拠ですよ。まぁだ、大神宮様がお祭りしてあるでしょう。これは、迷うとる証拠です。荒神様が、まぁだ、お祭りしてありませんか。いいえ、そんくらいのこっじゃなか、まぁだ、八百万の神々様を祭っておるような事はありはしませんか。しかも、祭るだけではない、拝んだりしてはいませんか。合楽でご信心を受けられて、言うなら、良い悪いはないと思えと、天地の中に起きてくること、ある事すべて、一切合財が、神様の御働きである、ご信愛の現れであると、まぁいうならば、あらゆる角度から頂いておってもです。それはすっきり。昔から、大黒様が祭っちゃるけん、まぁ捨つるとが惜しかち言うのかも知れんけれどね。そげなことは、惜しゅうもなーにもないから、早うすっきりと、捨てさせて頂いたり、ほうらせて頂いたり。仏壇なんかは、なーにもならんのですから、早く壊させて頂いて、ね。私が、今日、言いたいのはね、そこなんです。迷信打破の信心だと、いわゆる、偶像崇拝といった様なものがです。いかに、愚にも付かない迷信であるかということをです。それが、すっきりしてくる時です、私どもは、一つ、大英断が出来る訳です。改式してない人は、もう改式しなければおられんのが、金光様のご信心です。はぁ、家の事はまぁ、何年もかけとるけんでち言うちから、惜しゅうして応えん。なーにもならん、飾りにもならん。飾りどもあっちゃいかん、(もう真っ暗に、)そげんとがあるとに頭下げたり、お仏飯をお供えしたり、花上げたり、面倒くさい。と、私は、極端な事を言うておるようですけれども。ここの、六十五節の御理解は、そういうことを教えられてあるのです。金光大神の御取次を頂いて、天地金之神様を奉祭したら、他には何にも要らんのです。
これは、私ども、まぁだ、親教会におかげ頂いておる時分でもでございましたけれども。まぁ、北京から帰らせて頂いて、一生懸命、信心修行させて貰う。もう打ち込んで信心させて貰うて、そして、御理解が、少し分かってきた。段々、分かってくれば分かってくるほどにです。そういう、すっきりしたものが生まれてくる訳です。それは、横着でもなからなければ、横着でもなからなければ、お粗末御無礼にするという事も、けっしてないのです。例えば、八百万の神々様にも、一切、天地金之神様の、いわば、御働きの中にあるのですから。だから、もう皆さんがです、まぁだその、大神宮様を祭ったり、荒神様をお祭りしてあったり、まぁだ、何々様のお守り札ども、頂かんならんごたる、この間はです。金光様の信心は、まぁだ、分かるっとらんと言わなければならんのです。私共は、いわゆる、(てんかひとえてんかいまわしてから?)一生懸命の信心修行させて頂く、教えを頂けば頂くほど、金光様のご信心の素晴らしいことが、段々分かって参りました。それでもう、本当に、親先生が仰った訳でも何でもない。もう、そうしなければおられなかったです。第一、家族の者も、何とも申しませんでした。大神宮様を全部下ろさせて頂きました。荒神様にも、こんなあった荒神様が、昔からのがございましたけれども、それも全部下ろさせて頂きました。ご仏壇も全部、何もかにも、一切合財、いわば、灰にして、そして、天地金の神様と、ご一体としての拝み方。だから、大神宮様とも言わなければ、荒神様とも言わんですむおかげ頂くほどしにすっきりした。だから、人ごとち思うちから、なんでしか忘れられん。そういう、すっきりとした所からです。私の場合は、すっきりしたおかげが、現れ始めたんです。ですからね、もう皆さんの考えの中にですかね。( ? )やっぱ、勿体なかけんでと、と言う間は、金光様のご信心、教祖の仰るご信心が、まぁだ分かっとらん、いわゆる、分かっているようであっても、教えを頂いて、道理の上では分かっているようであっても、すっきりしてないという事なんです。ですから、言うなら、これはまぁだ、親戚の手前とか、まぁだ、例えば、信心のない家内とか、または、主人とか、の手前に、夫婦喧嘩したなら喧嘩してまでまでしろという訳じゃないです。ですから、そこんところを願わにゃいかん。一家を挙げて、そういうことに出来れる、すきっとした、金光様のご信心を頂きたいという願いを立てにゃいけんです。でなかったら、絶対、すきっとしたおかげは頂けませんです。生きとる間は金光様、死んだら仏様。もう、こげな馬鹿な話はないです。がたしかのおかげしか頂かんです。
みなさん、本当にね。私が、日頃説いておる信心が、本当に分かったらです。もう、そうしなければおられないです。私は、そういう生き方にならせて頂いて、いわゆる、(?)も、もたもたしておった、改式が出来なかった事が、すきっと改式が出来た。だから、仏さんにも、ちゃんと断りに行った。はぁ一時は、そうにゃ、ふうが悪かったけれども、段々分かって頂いて、今では、畳替えがあるちは、やっぱ、言うて来なさります。ちょっと、どこの造作があるというと、やっぱ、もうその、寄付を言うて見えます。だから、それは、させて貰います。けれども、そういう意味においてです。まぁすきっと、とても、本当はですね。ご法事どんするてんなんてんち、金光様の信心しよって、実を言うたら、恥ずかしゅうして、可笑しゅうして応えんごとならにゃいかんです。と思いますが、私は、そこが、すきっとしとらんでしょうが。なーにもならんです。もう私はね、だからね、そこんところが、すっきりと出来るのじゃないといかんです。もう、今日帰ってから、直ぐ(お大神宮様を頂きなさいとも?)仏壇を壊してしまいなさいと言いよるとじゃないですよ。そういう、すきっとした信心を身につけてくださいと言ってるのです。そうでなかったらね、金光大神を、私がね、世界の金光大神という事になってこないのですよ。信心しておっても、まぁだまだ、せにゃち言うてござる事じゃん。こらもう、どがしこ金かけとったっちゃ良かけんでですね。それはもう、いよいよ、もう本当に、捨ててしまえれるだけの、すきっとした。問題は、けっして私は、無理言うのじゃないですよ。しなさいじゃないですよ。そういう、すきっとした信心を頂いたら、そうしなければおられないのが、金光教の信心だという事です。
今日は、堤さんのお宅の、恒例の宅祭りがございますがね。もう十何年、今この、十何年にもなりましょうか。大変見事におかげを受けられて、信心が、段々分かって見えて、大変な、言うなら、世間で言う、信心家におなりになった訳ですね。もうそれこそ、あらゆる神々様がお祭りしてございました。もう右だれこうだれ、それこそ、ほんな、お観音様でござい、もうそれこそ、お稲荷様でござい。それももう、コンクリートで、こうがっちり作ってですね。それを、毎朝毎朝拝んで、下げでんするのにも、大ごつじゃった。それから、大ごつじゃけん、いっちょ、ぐるぐる回って、手叩いてから、ぐるっと、一遍通り回ってから、八百万の神々様にでも拝みなさったげなと思うぐらいに、色々な神様がお祭りしてあった。初めて、私が、あちらに、宅祭りにお参りさせて頂いた時に、もちろん、向こうの願いでございましたから、自分は、ちっともう、気色の悪かった。で、私が、参りましてから、全部壊させても貰い。そして、焼かせて頂いて、すっきりした、言うなら、おかげを頂かれた。ほら、隣近所の方達は、随分ね、あげなこつしよったなら、今はとても、ほんな、火事の焼けたり、災難の起こったりするというふうな事でもございました。そういう事が、耳に入ってきましたけれども、おかげを頂きまして、段々、繁盛の一途を辿って、今日の、堤?吉商店がある訳です。だから、そうしたから、ほんなら、堤さんの信心が、すきっとしてあるとは思いませんけれどもです。私は、それが出来れる、本当に出来れる。もう例えばね、お守り札どん持っとる、他所のお守り札どん持っとるなら、金光教の信者として、もう恥ずかしゅうして応えんぐらいな気持ちには、一つ、早くならなければ、おかげにゃなりません。捨つるとは勿体なかけんでち、何が勿体ないですかね。(そらあとにした、病人のかた抱き込むという、?)そういうこっじゃ、決してありません。天地金の神様に包含するのです。だから、本当に、すきっとするおかげを頂くためにです。どうぞ、さぁ今日という事じゃございません。けれども、あげん仰るとがほんなこつと思うたら、かえって、早速、大神宮様でん何でん、自分で焼くとがいかんなら、ここへ持っておいでなさい。ここで私が焼いてあげます。ご理解を頂いて、分かるという事は、そういう事が分かることなんです。えらい信心が出来たごと、よかごと言うたっちゃ、まぁだ、八百万の神々様どん、家にお祭りしとるごたるならば、これはもう本当に、けっして、まだあなたは分かっとらんと言うことです。本当にそうです。私共は、そういう意味合いで、おかげ頂いとったと、自分で思いますね。
昨日は、久富繁雄さんのところのお父さんの、ちょうど五年に当たりますので、五年の式年祭が、ご親戚、ご兄弟の方達、いわゆる、子供、孫、ひ孫まで、みんな集まって、本当に有難いお祭りが仕えられました。別に、改式を正式にしておられるという訳でもない。けれども、段々、信心が分かって見えて、本当の、私どもが助かりを願うなら、やはり、先祖の方も助かられなければならん。式年のお祭りをして頂きたいというて、お願、お取次頂かれたら、五六日前に、お爺さんの御霊様は言うにおよばず、お婆ちゃんの御霊様、それからまた、ひいお婆ちゃん、それこそ、これが、久富の家の、うからやからの御霊様であろうという御霊様が、みんな、繁雄さんの夢枕に立たれたち言う。もうそして、大変な喜びを現わしておられる。昨日のお祭りを奉仕させて頂いてもです。いうならば、そのお祭りをしたことが、ご先祖様が喜びなさろうというだけではなくて、その事が、どんなに、天地金之神様がお喜びになったかという事実をね、私は、頂かせて貰うて。お互い、天地金の神様のお喜び頂けれる信心を頂きたい。どうぞ、神様に、喜んで頂く信心を頂きたいと言うておるのですから。一番根本的なところをです、神様に喜んで頂く信心が出来たことをです、神様がお喜び下さるのです。もう現在の仏教、これは、偉そうなことを言うちゃいかんけれどもね。本当に、助けるとか、助かる力をなくしてしまってるです。和賀心にならなければ、人間の幸福はあり得ないんだと。いや、和賀心になってしまわなければ、人間が幸福にはなれないのと言うのではなくてです。和賀心を目指すというだけで、おかげになるのだということになるのです。そこでね、そういう信心を、本当に分からせて頂く事のために、修行が要るのです。例えて申しますとね、お照らしのあるのに、良い悪いはないと。けれども、例えて言うと、私どもは、やはり、雨の降るよりもお天気の方が良いということなのです。けれども、やっぱり、雨の日も、神様のお恵みとして頂いておるけれども。やはり、そこまで、今日でもお参りして見えるのにです。やはり、お湿りの中を、いわば、もうこの頃、皆さんね、自動車とかなんかで見えますからなんですけれども。やはり、単車で見えたり、自転車で見えたりする方は、歩いて見えたりする方は、足を汚し、やっぱり濡れたりして、お参りして見える訳です。ですから、やはり、お天気の方がよか訳です。まぁ何か、一つの行事でもありますと、大祭なら大祭と言う時には、やっぱり、お天気の方が、大祭も有難いという訳なんです。そこでほんなら、私どもの場合です、お天気ばかりじゃない、雨の降る日でも雪の降る日でもです。そこを、有難く頂かせて頂くための修行が、だから必要なのです。でないと、神様のお恵み、お心に添わないことになるのですから。今日は困ったお天気じゃあると言うたんじゃ、神様に対して、相すまんことになるのですから。そこで、困ったお天気と言わんですむだけの、それを、すきっと、自分の心の中に、はぁお湿りを頂いて有難いと。すきっと、その心が、すきっと頂けれる事のためにです、修行しなければいけんのです。そこでです、私どもは、お天気の日よりも、むしろ、雨の日を、よって修行するといった様な、いわば、心掛けが必要なのです。
十三日会の、終わりましてから、ここで、みんなで御祈念をさせて頂きましたね。それで、私は、御祈念の先唱者が、奉仕されました。そして、こっから、御祈念させてもらっとったら、御心眼に、伊勢海老の、大きな伊勢海老を、こんなになって、裏の方を見せて下さった。伊勢海老といや、最高の修行と言う事である。せっかく、合楽で、一生懸命修行しておると言うことは、最高の、皆さん、修行をなさっておられる訳なんです。だから、最高の修行をさせて頂いておるならです、それが天ぷらであったり、または、上の方から覗いたら、その修行が、まだ、ほんなもんじゃなかったりと言う所を、一つ、見極めさせて貰うて、いわゆる、天ぷらではない本当なもの。裏から見ても表から見ても、立派なもんと言うような修行をさせて頂かなければならんと言うこと。
昨日も、久富さんところの、霊祭に、まぁ色々とお知らせを頂きました。有難い例話のお知らせ。その中にです、もう本当に、御霊様が喜んでござると言う事は、神様も喜びなさった。その印が、このような喜びのお祭りになった。本当に、子供達の信心によって、おかげが頂けれる。有難い有難いというお話の後にです。けれども、ここだけは頂けんぞという所を頂いた。あの、お正月なんかに、巻き昆布と言うのを使いましょう。昆布のこう巻いた奴をね。あれは、大体、こう括ってあるのは、干瓢か何かで括ってありますね。みんな食べられるように。ところが、昨日、私が、御心眼に頂くのはね。ちょうど、赤の元結いです。髪の根を、元を括りましょう。昔あったですね。赤の元結いで括っちゃる。ですから、喜ぶ、その事は、本当に、良い信心であり、有難い信心であるんだと、久富さん。けれどもね、これだけは頂けんぞと言うことです。神様が、こら頂けんと仰っておられた。さぁ、こりゃ頂けんと仰る信心は、そんなら、どこかと、自分で分からにゃいかんと言うことなんです。私共は、こうやって、一生懸命させて頂いておるけれども。はぁ素晴らしい信心、あの人はと思います。私共でも、真似出来ん方が、こんなに沢山おられます。けれども、私が見てからですもん。それを頂けんという所があるけれども、さぁ、それを指摘して、ほんなら、申し上げる訳にいかんのです。そこが出来とらんのだ。だから、自分で、神様が、これは頂けんと仰る所を、一つ、自分で探索させて貰うて、そこを改まって行く信心であらにゃいかん。
そしたら、御祈念が終わってならです。先生、実は、私も只今、御祈念中に、伊勢海老が三匹泳ぎよる所を頂いた。どういう事だと思いますか。最高の修行をさせて頂いておる。伊勢海老というのは、ここで、何時も頂きますように、なぜ伊勢海老というのを、伊勢海老のその値打ちが、姿が、味がええと言うだけではなくてです。伊勢海老の値打ちというのは、例えば、伊勢なら伊勢の海で捕られた、その伊勢海老が、地方の魚屋さんの店頭に出ても、やはり、こう、ごそごそ這いよるから値打ちがあるとですよ。もう死んだつは値打ちがなかです。値段も落ちる。そこでです、ほんなら、魚屋の店頭に出て、いよいよ本番、いよいよと、私どんが言う時だ、ほんならば。時にです、いわば、それが、元気でなかったり、死んだりしたら、どうします。その修行が、させて頂いた修行が、もの言わん事になってくる。そこで、例えば、活き絞められとかなければいけないのだという事なんです。伊勢海老が捕られると、小さい箱の中に、ぎっしり詰めて、そして、荒波の中に、一週間も十日も、ほうからかしてある。それこそ、息の詰まるような窮屈な事であろうと思うです。けども、そういう、活き絞めを受けておるから、魚屋の店頭に出た時に、それこそ、ここの上を飛び出して、ガサガサ這う事が出来る訳です。私共が、いよいよ、本番という時にです。その、窮屈だろうけれども、雨の降る日は嫌だろうけれども、寒いとか、辛いとか、難儀と感じる事は嫌だろうけれども、その嫌と思う、その中にです、今こそ、活き絞められておるんだと、一つ悟らせて頂いてです。その修行が、本当に出来させて頂いた時にです。私は、店頭で、伊勢海老が元気よく這いまわる事が出来る様なおかげ。いよいよ、本番という時に、おかげがすきっと頂けれるという事なんですよ。それを、楽を求める。楽から楽を求める。なるほど、その事も、ほんなら、今日の御理解を頂くとです、その事もおかげなんです、実を言うたら。自分のしたい放題、例えば、親鸞聖人あたりの生き方は、そうだったんです。お御堂を持ったっちゃ良かった、お寺でも持っても良かった。そこに、南無阿弥陀仏を言いよると、助かるとは助かろうばってん、それではね、本当の徳にならんて。いわゆる、仏も信ずる、神も信ずる力は出来てもです。神様から信じられるという事になってこないて。せっかく、お互いが、一生懸命、尊言、伊勢海老の様な修行をさせて頂いておるのであるから、それを泳ぎ回るような事でどうします。なるほど、泳ぎ回っておる事も、遊びを受けておる事も、楽な方へ楽な方へと手が出る事もです。その事も有難いと頂けれる信心があります。場合には、そういうふうな頂き方しなければ、自分の心の呵責だけでも助からん様なこともありますけれども。けれども、私どもは、何時も、そこんところを、性根の中に置いとかにゃならんことはです。少し、この頃は、頭に乗っとるな、自分の信心はと、分からせて頂いて、もう、取るならば、窮屈な方を取らせて頂こうという生き方にならなきゃいけんのです。降ることも照る事も有難いけれども、自分に都合のよいことだけが有難いのではなくて、都合の悪いほうもです、それを有難く頂けれるところに、信心を頂かせて貰う。そういう信心からです、そういう信心修行から、すきっとした、心の状態。すきっとしたおかげが頂けてくる。それこそ、私も方にはね、生神金光大神だけしかお祭りがしてはない。御霊様だけしかお祭りがしてはない。それこそ、八百万の神々様は、もう天地金之神様の中に、包含されてしまわれたというほどしのです、すきっとしたおかげがね、頂ける時に、初めて、仏壇も要らない、神棚も要らないというほどしのおかげを頂ける時に、必ず、すきっとした、おかげが受けられましょう。だから、今日、さぁ、もうじゃありません。そういう願いを立ててです、おかげの頂けれる、本当にすきっとした信心を身につけて頂きたいと思います。どうぞ。